詐欺師症候群
From:小川忠洋
大阪の自宅から、、、
今日は、面白い言葉を発見したので、
それをシェアしたいと思う・・・
「詐欺師症候群」と言うものがあるらしい。
英語で言うと、インポスターシンドローム。
これはある程度、社会的に成功した人に
見られる症状だそうだ。
どんな症状かと言うと、
自分の功績や成功を自分の実力のものだと
信じる事ができなくなる状態。
今までの成功はただ単に
運が良かっただけで、本当は自分には
実力なんかないんじゃないか?
と言う疑心暗鬼になってしまう症状の事だ。
そして、いつまでたっても
自分に自信が持てない。
あなたも、今まで見かけた事は
ないだろうか?社会的には成功しているのにも
関わらず、何だか自信なさそうに
振る舞っている人を・・・
日本では、文化的にというか
習慣的にあまり個人の成功を讃えない。
それよりも、成功しても、
謙虚で、それを自分の実力だと
言わない人が尊敬される。
「○○さんは、こんなに業績を上げて
スゴいですね。」
「いやいや、運が良かっただけです」
と言うような会話が、
日本人の典型的な会話だ。
しかし、この詐欺師症候群の
観点を加えてみると、、、
「運が良かっただけです」
と言うふうに言うのは必ずしも
いい影響があるわけでもなさそうだ。
当人が、自分自身に
絶対的な自信があるのなら、
どんな言葉を言っても揺るがないだろう。
しかし、まだ自信がついていないなら、
「運が良かっただけです」とか言うのは、
変な自己催眠を自分にかける事に
なるかもしれない・・・
あなたはどう思う?
僕は、こう思う。
ほとんどの人は、
必要以上に自分を卑下している。
だから、これ以上、自分を下げるような
言葉や考えを使うのはどうか?と思う
日本語には”謙譲語”という丁寧語がある。
これは、自分の行為を下げて相手を上げる
という言葉だ。
そんな言葉の使い方があるなんて、
やっぱり日本人は自分を下げる傾向が
あるんじゃないかな?
それって自分自身に
いい影響を与えるのだろうか?
あなたのコメントを待ってるよ。
-小川忠洋
PS:
どうすれば、揺るぎない絶対的な自信を得られるだろうか?
これを聴いて、考えてみるのもいいだろう・・・
私もよく自己卑下してました。
でも自分をほめるようにしないと上向きの気持ちにならないことに最近気づきました。今回の小川さんの書かれたことと全く同じでしたのでやっぱり間違ってなかった。ありがとうございます。
[お陰をもらって成功(良い方向)に向かうことができました]と表現し、自分の考えに基づいた行動により、より確かな成果を生むことができたと確信し、自分を褒めるてあげることが、自信につながると思う。が、表現の仕方が、いつもすべての場面で、慎みある控えめな発信(旧来からある古風な日本人の美意識のようなもの)では、その本心の見抜けない低レベルな実力もない、卑劣な手口を平気で使い、人を陥れる人種(現代社会に増えている)輩は、平気で人を馬鹿にし、喰らいついて突き落とす。その現在の社会の風潮にメスを入れるためには、自己防衛も必要で、なおかつ、正しい人たちを救済できる力を持ちたい。先祖よりの気質に(ぼろは着てても心は、錦・・・・)従い、その点を大切なものとして生きて来たし、これからも生きて行きたい。自分らしさの原点である。今現在、自己防衛のため、休養中である。効率的な戦略についていつも考えている。よい方法等未浮上。人の道に外れた行動はできないが、より強くなった自分をイメージして、療養に専念している。
面白いですね。
成長している人や人々、組織であればそのサクセスをシェアし自分へのヒントと捉えるのでしょうが、そうでない場合は、単なる自慢話に聞こえるようです。
寂しいことに日本の社会には往々にしてそれが見受けられます。
真に戦う人にはそれが大切な情報や啓発としての資源となると思うのですが。
また、一つのサクセスを表したところで、その人が何でもこなせると錯覚し、出来ない場合に誹謗中傷するような風潮があるように感じられます。
残念ながら、マルチの人間はそんなに多く存在するとは思えませんが・・
声を大にして自分をアピールする者をニヒリズム的に傍観してしまう。
それが日本社会の現実なのかもしれません。
自身を持ち続けること。
それは「何のために」を忘れずに、自らの成功の時計を逆算で「確信」することから始まるのではないでしょうか。
出る杭は打たれるといいますからね。
それに、そういった流れでの返答って、意外と難しいのかもしれません。
ただ、自分を下げるって、普通はできないように思うんですよね。
そういった文化というのは大切だと思います。
自分は運がいいと常日頃思っていますが、
成功した暁には運が良かっただけ
といってしまいそうな自分がいます。
それが自分を卑下する言葉でないといいのですが。
確かに、自分を卑下する言葉は良くないとは思うのですが、日本の文化の中で育った私は、必要以上に自分の事を持ち上げて言う人に、どうしても違和感を感じてしまうのです。「おれは、こんなにすごい!運が良いだけではなくて、実力もある。」自信満々なのはわかりますが、人前で言うべき言葉でもないような…、そういう気がするのです。
そこのところが、いまいち明確になっていません。自分に暗示をかけるのを、なにも人前でやることがあるのかどうか…、日本の謙譲語は、美しいと思っていますし。ここのジレンマを解決したいです。
「へりくだる」って言葉あるけど、(他をうやまって自分を卑下する)by広辞苑・・・人間関係の中でのテクニックなのかもと思い付きです。発展途上にある人間が使うと、害のほうが多いかもしれないと思う。たぶんテクニックを使いきれないから。自己暗示で終わってしまいそうな気がする。
詐欺師症候群の意味がよくわからなかったです
自分の功績や成功を自分の実力によるものだと信じることが出来なくなる状態とありましたがどうなんでしょう? 何によって自分の功績や成功を収めることが出来たのかと考えたとき それをどのような言葉で表現するのでしょうか? そして自分の実力によるものだと言い切ることがどれくらいあるのでしょうか?
スティーブ・ジョブズ氏のわが人生のスピーチのことを思い出してしまいました
こんばんは、小川さん。
日本語はとても綺麗で、丁寧な言葉だということも理解できました。
が、それが裏目に出てこんなことになるなんて・・・
自分の言葉には少し注意したいですね。
謙譲語を使うときは、とらえようによっては、確かに自分を卑下しているととらえることもあるかもしれません。
でも、自分を卑下することは相手より劣っていると認めることになると思うので、ふつうは好きでそのようには思わないはずで、心の中では嫌なはずです。
だからこそ、あえて他人に対して自分が卑下するという謙譲語を使えることは、自分にとって嫌なことをして、相手の気持ちを良くすることができるということで、かえってその分相手より心が広く、人格的に高尚な人物であると自負できるのではないでしょうか。
私はそういう考えで謙譲語を使っているので、表面的には相手を立てていますが、心の中では全く自分が相手に劣っているとか思いません。かえって謙譲語を使える私の方がすばらしい!とさえ思っていますね。
使う人自身の捉え方次第では悪影響になるかもしれませんね。
でも私はこの謙譲語は、言う側より言われる側の捉え方の間違いのがもっと危険な気がします。
このケース・・・
「○○さんは・・・スゴいですね」には、「運が良かっただけです」じゃなくて、「おかげさまで」でが一般的でしょ?
少なくとも、私の周りの成功者はそうですけど・・・
自分一人だけでは何も起きないのですから、関わってくださった方や、お客様、例えば「株で儲けた」なら株を発行した会社の経営者や社員の頑張りとか・・・
「自分一人の運」で片付けちゃったら、傲慢過ぎてとても「謙譲」の精神とは思えません。
謙譲ってのは、自分の本質を貶めるものではなくて、へりくだった位置に身を置いて、感謝の心で広く周りを見渡す姿勢だと思います。
イメージの中に「感謝」や「謙譲」が無いと、「とっても傲慢な成功」が実現して、周囲には「自分の食い物になるカモ」か、自分と同じように「傲慢な成功者」ばかりになってしまって、楽しくなさそうですね。
「運がよかった」と謙遜のココロで感じたなら感謝の気持ちが生まれて自分によい影響を与え、自分を卑下する意味で使ったら良い影響を与えないと思います。
キリスト教の背景がある場合(アメリカは特に)は、神への感謝が文化の根底にありますが、日本でそれに該当するのが謙虚、謙遜であり、それを表現する謙譲語があるのかと思います。
謙譲語が生まれた時代背景はよくわかりませんが、その時代にマッチしていた表現方法だったのだと思います。
でも今の時代では、謙譲語は自分を卑下する方向に行きやすいので、注意が必要な言葉ですよね。
何か成功した人で 本気で自分を卑下して落ち込む人は殆どいないと思いす
謙譲の中には揺るぎない自身があるのが普通でしょう
コメントの中の考え方にすばらしいものがおおくて感心してしまいます。
下のコメントの訂正です。
”謙譲”と”謙遜”って同義だったのですね!!
”恐縮”といった方が良いのでしょうか。
日本語って難しいですね!
”謙譲語”は自分を卑下しているわけではないと思います。
「言う」→「申し上げる」、「見る」→「拝見する」などと言い直しても、
特に自己評価を下げているとは思えません。
むしろ、コミュニケーションを円滑に行なう手段だと思います。
小川さんが仰ってるのは、”謙遜”ではありませんか??
たとえば、最近はやりの「させて頂く」は謙譲語でも何でもなく
自分を相手より下の立場に置いていると思います。
「する」の謙譲語は「致す」ですから。
日本語って相手へのホスピタリティ、その時の社会背景、思いやりが言葉として作られていったのでは?とも考えられませんか?「暗黙の了解」が通る社会だからこそ使えた言葉かも知れません。商売上手な商人は(例:私の大先輩ですが)謙譲しながらお客様の上をとっています。決して見下しているのではなく、商売の主導権を握っていると表現した方が適当です。
「運がよかったんですよ」も、案外集団社会が得意な日本では、集団からやっかみを受けない防御の言葉とも考えられそうです。上手くかわしている言葉にも聞こえます。「驕り高ぶる者久しからず」という考え方も根強そうです。・・・・成果をアピールするのと奢るのと混同している印象があります。
「運がよかったんですよ」で症候群?になる人は、もしかしたら自分だけ成功したことに罪悪感もっているのかな?などと見立てることもできそうです。
気になるのは、何かして貰って「すみません」「ご多忙中、申し訳ありませんでした。ありがとうございます。よろしくお願い致します」の3フレーズ。正直「もっと
表現はないものだろうか、もっと多彩な表現ができないものだろうかと。自分がどう感じたのか、ビジネスとはいえユーモアがあってもいいのではないか?と。
語彙の幅広さ、自分がどう感じたのか、相手に対してどう答えれば相手にも自分にも感じよく(おべっかでなく)伝わるか、成功した喜びを上手に伝えられるかなど。それって考え方のバリエーションにも繋がりそうです。
とても興味をそそる質問です。どの答えにも間違いが無いからでしょう。
謙譲語は自分を下げて相手をあげる言葉と捉えること自体が「謙譲語」というものにネガティブな捉え方を持ってしまっているのではないでしょうか。
相手を敬う言葉と捉えれば謙譲語も悪くないと思います。相手に合わせた言葉を使えばコミュニケーションがうまくいくと思います。
ただし「謙譲語」を自分を下げる言葉と思ってしまった人はもう謙譲語を使わない方が良いと思います。
「運がよかった。」私はとても好きな言葉です。
シンプルに、
腹の中で「おれスゴイ」と思っていればよいのではないでしょうか。
自分を下げてみせることで、周囲に安心を提供し、後日の協力を得られるのであれば、謙譲語、大いに使うべきです。
問題なのは「おれスゴイ」と思えない人ですね。
解決策は、いわずもがなでしょう。
必要以上に謙虚でいない方がいいと思います。せっかく素晴らしい能力、才能を認められないのはもったいないです。
”謙譲語”いいんじゃないですか!!
言葉は文化ですし、謙譲語を今の時代に
”合う”とか”合わない”で議論するのは
いかがなものかと思います。
問題なのはそれ(謙譲語)を知らないこと!
なんでもそうだと思いますが、使い手の問題!
(自分を卑下してると言うより、相手に対しての
思いやりではないのか?)
謙譲語は時代ではなく、文化の問題だと思う。
自信がある、なしとはあまり関係ないと
思いますが・・・。
議論するには値しないような気がします。
仰るとおり
揺るぎない自信があるのならば
どんなに へりくだった言葉を使おうとも
本人には微塵の悪影響もないことでしょう。
他者に向けて 如何なる表現を選択するか というのは
けっきょくのところ
ある種 戦略的な社交術に過ぎないわけです。
大切なのは あくまで客観的な自己評価……
ところで
運・不運というものを
大抵の人たちは誤解しているようです。
それらは単なる偶然ではなくて
潜在意識の牽引力と感応力の顕れ
に他なりません。
普段とは違ってたまには反対意見を述べさせて貰います(笑)
上辺だけでそういう言葉を使うことには共感できませんが・・・本当に謙虚な心を持った人の言葉は気持ちが良いものです。自分を敢えて下げることで常に目指すべき“上”が見えるから努力を止めない。
「運が良かっただけ」と言うことで周りの人や環境や自分自身に対する感謝の心が芽生え、明るくポジティブな心を持てる。更には自然や運命、或いは神といった超越的な存在への畏怖の念が生じ、それを信じることで「揺るぎない絶対的な強い心」を持てる。
口先だけの謙譲語は要りませんが、そんな謙虚な心と姿勢から発せられる“控えめな言葉”(決して後ろ向きや投げやりな言葉ではない)は、自分の成長を促すプラスの言葉だと受け留め、謙虚・謙譲は未来に残したい日本文化だと私は感じております。
まあ、私も含めそんな境地に達するまでが大変かと思いますが・・・柳生石舟斎や宮本武蔵など、日本の歴史を代表する達人の伝記を読んだりすればそんなことを感じ、自信満々の現代の格闘家達の言葉との対照性を面白く思っているところでもあります。
謙譲語を使うことは今の時代に合わないのではないかと感じました。
取引先との関係、先輩後輩、親戚関係、親子や家族関係。
その時々で、丁寧語や敬語は当然必要だと思います。
しかし、それはどちらかが偉いということではないのであって
そこをどちらかが思い違いしている場合大変なことになるのではないでしょうか。その力関係の犠牲になっている人がたくさんいると思います。
「運がよかっただけです」という言葉を使う人がその力関係を意識してそんなコメントをしているのであれば無意識であれ、その力関係に甘んじていることになるし、そうなりたい人たちに誠実に答えていることにはならず、ある意味不誠実な人、自分のことしか考えていない人ともとることができるのではないでしょうか。
最近はその結果について、きちんとその成功に至る過程を説明する成功者が増えてきているように感じます。どんどん物事の本質を正確に捉え、あるべき姿を示してくれる人が増えれば世の中がもっと良くなるのではないかと思います。
いつも小川さんのインスピレーションには感心してしまいます。
また楽しい日記をお待ちしています。
たしかに、日本人には自分を卑下する傾向、あると思います。
謙虚なのは尊大な態度の人より評価されますからね。
難しいのは本当に大したこともないのに、謙虚でない人がいること。
全然努力してないくせに、表面だけおべんちゃらを言って、
それが功を奏して社会的地位を得たり、他人をだまして収入を得る
ケースが少なからずあったりします。
こういう人たちが「詐欺師症候群」に罹りやすいのでは?
本当にすばらしい人は、謙譲語を使ってても、自分を貶めたりは
していませんよ。
馬鹿を奉る習慣があるからかなぁ
そいつに認めてもらうために、謙譲的な歪んだ尊敬語が生まれたんじゃなかな
ま、今の自分の状況も反映されちゃってるかもしれないけど、、、、、、、、
うーん、意味深ですね。
保身から発したものは、曲がる、
という原理から考えるとやはりいい影響より
悪い影響のほうが出やすいのかもしれませんね。
転機になったトリガーを与えてくれた方には感謝を、
そして自分なりに工夫した点を語って、シェアしたほうが
いいような気がします。分かち合いの精神ですね。
常に実践し続ける事は難しいかも知れませんが、
良いものは共有する雰囲気が高まれば、
きっとアクティブな集団に生まれ変わっていくでしょう。
すごく分かります!という自分と
それだけじゃないやろぉ~ って 思う自分がいます
結局は心の中でのバランスなのかもしれませんね
揺ぎ無い自信は、別のものの捉え方をしたら
井の中の蛙 に なってしまうかも
誰でも、良い自分と それを否定する自分が混在していて
その中で 悩んだり 奮い立たせたり、しっかりと前をむいていけたりするのかな
私も、かなり運がいいほうです
運が良くて 人に恵まれて 今があります
今の私であるために、努力もそれなりに してきたつもりです
その努力があるから、胸を張って 運がいいんですって言えるのかもしれません
おはようございます。
詐欺師症候群、そんな言葉があるんですね。
「運がよかったんですよ」には、いろいろなシチュエーションがあると思うので、一概に「卑下している」「悪い言葉だ」とは言えないと思います。
「運が良かった」という言葉の中に、
自分は何をやっても運任せにしかならない
努力しようがしまいが同じ
という意味が含まれているなら、それは悪い言葉でしょうが
他の方が言うように、皆さんのおかげです・自分も頑張りました・みたいな意味が含まれていれば美徳ではないでしょうか?
後者の場合でも、「運が良かった」と言ったあとに「皆さんのおかげです」「自分も頑張りました」と付け加えて言ったほうが良い時があるかもしれません。
言わないと分からない、っていう場面もありますしね。
努力や頑張りで得た成功なのに
「運が良かった」ってつい口にしてしまいますね。
そんな時に家族や周囲の人への感謝を言えるようになれたらいいな、と思いました。
脳から「運が良かった」の言葉を消せればいいのに(笑
吉田さんの考え方に近く、強運な人間だ、恵まれている、運を授かったなどというイメージを持つといい影響に変えられるのではないかと思います。
言葉の使い方で人生が変わると聞きますが、全くその通りだと思います。
個人的には、自分に自信があったとしても言葉は選んだ方が良いと考えます。
脳は自分が意識しないところで言葉に敏感に反応してしまうからです。
まぁ、でも、暗示を解く方法を身につけているのなら、人に伝えたいことや
意思の伝達なども必要だし柔軟性も必要かも知れませんね。
世間から出っ張った釘になる覚悟をとって、自分をかわいがりたいです。
常識を大切にする人は私の人生の責任なんて取ってくれないから。
相手も褒めてあげると、良い言葉を聞いたときの気持ちよさが伝わって
理解が得られるかも知れません。
世の中も穏やかになって一石二鳥です。
おはようございます。
なぜこんな発言をしたのか、を
突き詰めていったときに、
自分を大切にしているから、になるのか
自分はイヤだけどこう応えるべきだから、になるのか
のところなんでしょうか。
無意識に自分を縛り付けていく言動があって
それとわからずに毎日繰り返しているんですね・・・。
気をつけて言葉を使うようにします。
今日もありがとうございます。
よくないですね。
私はまさにこれだたかもな~。
自分は基本的にダメダメ人間であると思っていましたし、でもかなり研究もしてきたし、この分野ではまだ日の目をみていないだけのある意味成功者だと自分では思っています。
自分の力も必ずあった・・・・。
そう自分を奮い立たせることや、自分のしていることがちゃんと価値があるものであるということを誰に分からせるのではなく「自分」に分からせる事が大切なのかもしれません。
来週あるミッションに立ち向かいます。
うまくいかないこともあると思います、でも伝えないと伝わらないし、やってみないとわからないし、自分が伝えたいと思うからやってみようと思っています。
現時点での相手の反応はいまいちでどうしようかとも思いましたが、今までの失敗でまた自分を下げないように・・・やってみようと思います。
いつも言葉に助けられています。
ありがとうございます。
「運も実力のうち」
ただ「運が良かった」といいますが。
そういうチャンスが来たときにしっかり飛躍の機会に出来たことは、
本当にその人に実力が在ったからだと思います。
謙虚は美徳と取られますが、謙虚過ぎると自信がない人と取られ、
難しいですよね!
「運がよかっただけです」
⇒私は運がいい人間です。
⇒私には運も味方してくれます。
⇒私は運も呼び寄せる実力があるのです。
・・・といったイメージを自分自身に持っていれば、
逆に「運がよかっただけです」という言い方も
自信に満ち溢れた言葉に変わるのではないでしょうか。
私は謙虚で「運が良かっただけです。」と言うのは日本人の美徳だと思います。そして多分その言葉の裏に「自分だけの力ではなくて、皆さんのお力添えのおかげです」という気持ちが隠れているものなのだと思います。
でも最近はそういう感じが薄れてきているようにも思います。
自分を卑下するという風に取るのではなく、自分の力と皆さんのおかげでという風に全ての人が捕らえられれば、もっと日本人の良さが出るように思いました。
たしかに自分を卑下するのはあまり良くない行動ですよね。しかし自慢するのも周りに悪い影響を与えそうです。(学生とかならそういうキャラ付けもありますが)
僕は自慢するのも自分を卑下するのも個人的にあまり好きではないので事実を淡々と述べ、少しでも感情が入りそうになると「わかんない」というようにしていますがそれでも相手には(自慢か卑下か)どちらかに映っているのでしょう。
どうすればいいのでしょうね。
日本人で、「運が良かっただけです」 と言う人は、威張らない謙虚さが尊敬されるのを知っているからで、心の中では決してそうは思っていないはずです。
だから、変な自己催眠を自分にかけることにはならないと思います。
「運が良かっただけです」って、自分を卑下する言葉なんでしょうか?
どの国の成功者も「自分は運がいい」と思ってるはずです。
実際、全ての出来事は偶然だと思いますし。
また、どの国であろうと、成功するためには謙虚さが必要だと思います。
私が言えるのは、「日本人は・・・」と外国と比較したがる人は、自分を卑下してると思います。
「インポスターシンドローム」か・・・。なぜ「詐欺師」になるのだろう?・・・・・・
不可能を可能にすることは難しい・・・。
マットさんの扉の話、胸に沁みる現状の私。
自分が何を考えているかわからない。どうしたいのかも分からなくなった今、
「想像とは、無限への扉である。非現実的だと思われていることを熟考すれば、その扉は開かれ、それが現実となるのだ」を読んでみて、私の本当の気持ちが分かりました。本当にやりたいことが・・・。(メモしてポケットに入れて持ち歩いています。落ち込むとそれを見ます。)
こんなにやりたいことなのに、「それは我がまま」とか「そんなことをしているから疲れてしまうんだ」とか「他のもっとやらなければいけないことがあるでしょう。それをこなしていないのにそんなことをしてはいけないのでは」など、この類の数多くのことを私の周辺の人たちは言う。
それが、私への励ましのメッセージなのだ。私を立ち直らせるためのヤサシイ言葉と、心から思ってくれている人達・・・。
子供達の看病からの疲れで落ち込んでしまった私のその原因を、私の夢が「無理なことをしている」という方にまで発展させてしまう。
「これとそれとは違う」という反論がしたくても、その人の常識を変えることはできない。むなしく言葉が宙を泳ぐ。
私は、一つの扉を見つけた。その扉の向こうは、とても素敵な世界がある。私には見えるけれど、その人たちは「絶対無理だよ。つぶれちゃうよ。やめておきな。」と、私の手をひっぱり、扉を閉ざそうとする。
私の心が泣いている。
やりたいことをしては、それはわがままなのか。
私だって、もちろん、一般的に言われている常識を考えてその扉の向こうを見ている。たくさんのことを知って、考え抜いたからこそ、向こうの世界が見えるのに・・・・・・・・・・。
こんなところで立ち止まっている自分が悔しい。悔しくて悔しくて涙が出る。
でも、今は、どうすることもできず溺れてる。
だけど、ぜったい、立ち上がってみせる。
私の取り柄は「諦めない」・・・。人生、山あり谷ありだ。発想の転換だ。この技で、きっと出口が見つけられる。
運と言うのは、誰にでも来るけれど、それをつかめた人だけが「運が良かった」と言えるのではないでしょうか。ホントに誰にでもチャンスが来る。
つかむか、つかまないかは、その人の心がけでしょうから。それも実力なのかなと思う。
実力は、自力のことじゃなくて、自力・他力含めたトータルなもの。と思います。
単に謙虚にみせるために言葉だけで言うなら、自信にはならないのでしょうね。
日本では何の問題も無く、謙虚さは美徳で良いんじゃないですかね?
謙虚さと自分をおとしめる考え方は、通常別でしょう。
ただし、自虐への罠ではあるでしょうか?
私も運が良かっただけ、と思ってしまうタイプです。その発想は、自分は何をしても駄目なのかな・・→諦めになってしまいます。今回のメールは自分のことを言われているようで一瞬どきっとしました。少しずつ自分を卑下することを減らしてみようとおもいます。
同じことに気が付きました
自分を下げるとは自分の否定に繋がるのではないでしょうか?
なので 最近は褒められたら「ありがとうございます」と頭を下げてます
謙遜するのではなく素直に受け止めてお礼を言ったほうが
その場が和むように感じています
むずかしいよー。
日本人特有の謙虚さが会ったからこその、この日本の発展があったのだとも思うし・・・・、バランスをとるのが必要なのかも知れないと思っています。自身と謙虚の。
私自身は,経済的には,何の“成功”もしていませんが…。
「運が良かった“だけ”です」ではないでしょう。
「運が良かったんです」なら,そして確かに「運が良かった」と思えたならば,それはそれで“運を‘引き寄せ’られる”,そして“己の人生を肯定的にとらえられる”良い言葉ではないでしょうか。
“たまたまの成功”なら,“失敗”してしまえばいいじゃないですか。
本人が“たまたまの成功”としか思えないのなら,“その程度”ということでしょう,本人もその“成功”も。
何を言っても,どう行動しても,“報酬”を受け取るのもその方ですし,いずれ“負債”を支払わされるのもその当人自身です。
…ついていった人間も,まぁ,そこは“自己責任”ということで…。ついていった己とその対象たる経営者に,責任を追及して下さい(苦笑)。
何でもそうだと思いますが,“地位が上がれば上がるほど,制約が多くなって自由度が減る”ことを理解できない方は,いずれ“我が侭”を“自由”と勘違いして“自滅”されるのでは?
“顧客”のことを理解すればするほど,“売り上げを上げ続けるための‘条件’=‘制約’が多くなって,己の“自由”=“勝手”な行動ができなくなる”事実を直視せざるを得ないのだ,と思いますが…。
上記を“制約”と感じるか,“理解が進んでいっている”と考えられるかも,正に本人次第でしょうね。
“経営者”って,結局“自分のやり方”でその地位まで来て現在もその地位を維持している場合が多いので,“視点が固定的で狭く,寛容さに乏しい”のは当然だと思っています。当然,“自分のマネージメントが下手”だからこそ“業績が上がらない”のに,そういうときに限って“部下に厳しい”ですし。
横から見ていると(=利害関係がない場合は特に),笑ってしまいますね。“これじゃあ,部下がついてこないだろうなァ…”と。身近な部下を気持ちよく働かせられないのに,接触回数が部下より遥かに少ない客をいい気分にさせてリピーターにできるわけないじゃないですか(笑)。
経営に自信がなくなれば,雇用者から被雇用者に戻ればいいんです。
その程度の視点の変換が頭の中でさえできないのなら,せっかくの上記の小川様の提示にも,的確に反応できないのではないでしょうか?
私も,いろいろと考えさせて頂いています。
いつもありがとうございます。
やはりずっと日本で育ってきた僕にとって、謙遜さや謙虚さはある意味日本人の美に映りますね。“いい人”と思われたいみたいな・・・
でもそれって場合によっては自分を追い詰めるだけで自分にとっても周りの人にとっても良くない場合もあるんだと、40半ばになった今、強く感じているもの事実です。
自分の成長のためにも、自分に良い影響を与えられる言動を心がけたいですね。
自分で誉めたいほどの業績をあげた時には
「運が良かっただけです」 の言葉の前に
「支えてくださった あらゆる事柄にします」
という 言葉が来るかな。
私の場合は、やはり「運が良かっただけです」に近いかな。
というのは、物事の始まりがいつも運良くやって来て
その運に追いつくために学び、必死になって内容をつけて行く という
作業に近い実績の上げ方だからです。
だから この 「詐欺師症候群」という言葉を目にした時
実力も大して無いのに 人気や評価が先行している
まさに 私の事と思って どきっ としました。
自己評価を下げるということではなく
「運をつかむのも実力のうち」と言われているので
「運が良かった」事に対しては
運をつかむ 実力が備わっているのだ と鼓舞しています
ゆるぎない絶対的な自信を得たいと思って
日々学び、強く生きる ことです
その学びが毎日が 自信に変わると思っています