平等主義は最高?
おはようございます!
マット・フューリーです。
私はスポーツをこよなく愛しています。
スポーツの世界では、卓越したものに報酬を与えるという、
現代社会に残った数少ない分野の一つだからです。
このスポーツの世界では、
人よりも目立ち、奮起し、
誰よりも稼ぐことが許されます。
また、そうすることで称賛を受けることも許される
数少ない世界です。
あるチームが相手チームを打ち負かし、
チャンピオンになっていく過程は、誰が見ても興奮します。
MVPは誰だろう? 新人王は誰だろう?
などと考えるのは楽しいものです。
チャンピオンがいかにしてその地位を手に入れたのか?
どういったトレーニングをしたのか?
役立ったものは何なのか?
誰の教えを受けたのか?
こうしたことを知るのも楽しいことです。
ところが最近の少年向けスポーツ教室では、
『優れている』子どもに
報酬をあげることがなくなってしまいました。
最優秀選手賞、万能選手賞、最も感動を与えた選手賞。
こうした賞をもらう代わりに、
全員がトロフィーをもらうのです。
それに見合う活躍をしたかどうかに関わらず、です。
コーチたちは「楽しむこと」が一番大切であり、
勝つことは大事ではない、と子どもたちに説きます。
はたして本当にそうなのでしょうか?
その両方が大切なのではないですか?
子どもたちに勝つための方法を教えてあげましょう。
そして、優れた選手になるために、
練習することの大切さを教えるのです。
イマジネーションを使い、視覚化すること。
目標を設定して、試合のあらゆる局面を研究し、
練習する方法を教えましょう。
もちろん試合に至るまでの行程も、試合と同様に
大事にするよう教えましょう。
勝利を手にした時は、謙虚で礼儀正しい態度を取ることを、
失敗やミスからは、注意深く辛抱強い態度で学ぶことを教えましょう。
スポーツは単なる「遊び」などと言ってはいけません。
そんなことを言っても誰もだますことはできません。
特に子どもは欺けません。
彼らは心の奥底で分かっているのです。
なぜ人々は点数にこだわるのか、ということを。
賞は誰もが受け取るべきものではない、ということを。
私が競泳をやっていた頃のことです。
12歳と13歳の時、2年連続でMVPを獲得しました。
しかし翌年、コーチはMVP賞を廃止しました。
その時彼女はこう言ったのです。
「チームの誰が優れ、誰が劣る、ということはないのよ。
チームは皆平等なの」
彼女の言い分にも一理あります。
でも内心では、連続していつも同じ人に
賞をあげることを避けたかったのでしょう。
その代わり、コーチは同じチームに参加していた
彼女の妹のための賞を作りました。
「妹が大好き」賞だ、と私は思いました。
コーチがこのような態度を取った後も、
私はさらに3年間競泳を続けました。
その間、あちこちの大会で記録を更新し、勝利し続けました。
負けたのはたった2試合だけでした。
それなのに年末のお疲れ様パーティーでは、
私は賞を取った他の選手たちに拍手を送る側でした。
私が競泳で再び賞をもらうことは、
二度とありませんでした。
私が最終的に水泳に対する興味を失ったのは、
おそらくそれが理由だと思います。
それはとても残念なことでした。
なぜなら大学時代、アイオワ・チームの副コーチが、
「ほんのお遊び」で私のバタフライのタイムを計り、
「君なら100メートルバタフライを54秒で泳げる」
と言われたからです。
彼のオフィスの入り口には
偉大なる10の記録が貼り出されていました。
そこにはこう書かかれていました。
*「100メートル・バタフライ、54秒、
インディアナ大学マーク・スピッツ、1972年」
当時私はレスリングに行き詰っていましたが、
彼の励ましの言葉は、今でも心に残っており
宝物のように大切にしています。
チームの子どもたち全員に賞状をあげることに対しては、
私は大賛成です。
ワールド・シリーズのチャンピオン・チームだって
選手全員が賞をもらうのです。
でも最高の活躍をし、他の選手より抜きんでた
スター選手にはMVPトロフィーが贈られます。
ですから、他の子たちより活躍した子どもには、
より大きなトロフィーと別枠の賞を上げましょう。
そういった賞は、大リーグにとっても十分効果的なのだから、
子どもたちにとっても十分有意義なはずです。
子どもたちが楽しんでスポーツができるようにしてあげましょう。
でも実際の世界では、
「勝利は敗北よりもはるかに楽しいものだ」
ということを必ず強調して下さい。
子どもたちのセルフ・イメージをスポーツで築いて下さい。
練習することの価値を教えるのです。
MVPであってもなくても、
正しいやり方で身体と精神を鍛えれば、
どれほど上達することができるのか、
子どもたちに教えてあげて下さい。
そして、ただ「楽しい」だけだと、
練習の価値も、達成の充実感も学ぶことはできない、
ということを伝えましょう。
スポーツ界では、
『出る杭(くい)は打たれる』
のような、平等主義とは相いれない最後に残った砦です。
少なくともプロや大学のレベルではそうです。
人間の世界もまだ捨てたものではありません。
マット・フューリー
PS.
あなたも今までに、練習の価値や達成の充実感を学んできましたか?
これに参加して、セルフ・イメージの築き方をスポーツのように練習してみましょう。
↓ ↓ ↓
http://www.drmaltz.jp/seminar/psycho_letter.php?mag=Psycho20100522MT
びつくりアメリカじゃないみたい 日本かとかんちがい
真剣に打ち込んできて、最高の舞台に上がる。
→そしてコテンパンに打ちのめされる・・・。
→負けたことのショックから癒える時、
初めて勝者の努力や姿勢、レベルの高さに気付く。
→次は必ず勝つと心に刻む。
→ライバルに勝つがマークしてない者に負ける。
→結局自分自身に「克つ」ことに気付く。
→自分のゴールが見える。めでたしめでたし。
スポーツって、素晴らしい。
牙を抜くための洗脳でしょう。
温室で一生過ごす事が出来るのであれば平等主義でも構わないですが、ほとんどの人間は、いずれは理不尽で不平等な社会に出て行くことになります。そのときにくじけずに逞しく生きていくための訓練を子供の頃にしておく必要があります。
また、もし仮にその人自身は温室で一生過ごす事が出来たとしても、その子孫は永久に温室で過ごす事は出来ず、どこかの代で社会に出て行くことになります。そのときに滅ばずにいられるだけの教育をその子孫に受けさせておければよいのですが、温室育ちの人がそこまで知恵を回らせることが出来るのでしょうか。
最近の学校では運動会で順位をつけないとよく聞く。社会に出れば本人の意思に関係なく、勝敗がまとわりつく。その時になって挫けないためにも、本当は順位つけは必要だと思うんですけどね。
平等主義・・・?確かに、『出る杭は打たれる!!』
マットさんの、スポーツ経歴・・・
素晴らしいです。 ^^
実は、自慢にもなりませんが・・・『運動神経 ゼロ!!』
その上・・・『 下手のよこ好き?? 』にて、
何と
バスケット・・・新体操??(当時は、スマート~~でしたが?)
12~13歳の頃、連続でMVP!!
恐らく、マットさんの才能は、認めて居ても・・・
嫉み・嫉み 更に、外部からの因果関係が?ネガティブな感情が渦巻いていたのでしょう!!
それにも、めげず・・・前へ 前へ!
当時 ーー> 壁 にぶつかった時・・・マットさんの取った行動は・・・
そして、大学時代のコーチとの出会い!! これが、『 心の宝物 』
更に、『人格形成』に、磨きをかけた今日のマット・フューリー!!
ポジティブな考えをする・・・ マット!!
今日の『 王道 の マット!!』 の存在!!
コメントを、拝見して、今の私の心情とだぶらせて・・・しまい!!
『吸血鬼・寄生虫・・・黒幕?』
仏教で言いますと・・・大乗経と小乗経の違いかしらんと??
全てを、もぎ取ろうとしている・・・が!!
この暗黒時代でも? 私の心は・・・成長し続ける!!
ネガティブになる感情を・・・断固たる信念にて遮断して、
『 ポジティブな感情 』のみを、潜在意識に、しっかりインプット!!
これは、一層伸びるーーー>努力するーーー>魂の向上(成長・進歩)
この事を、教えてくださった事に感謝!!
そして、ドクター・モルツ博士のサイコサイバネティクスに・・・乾杯!!
勝者が喜びを感じるのは悪なのでしょうか。
勝者を讃えることは「差別」でしょうか。
単に廃止することで「平等化」と呼ぶのは何か履き違えている気がします。
最近の平等主義にはどうも違和感を感じるものが多いです。
純粋に平等化を考えるなら、もっと良いやり方がいくらでもあると思うのですが。
スポーツまさに勝負の世界であり、そこにいきつくまでのモチベーションを保つには自分自身も楽しむことを忘れてはいけない。とこの記事を見て感じました。
「楽しむこと」も、「勝つこと」も、
その両方が大切なのではないですか?
というご意見に大賛成です。
最後に勝ち残る人は一人。その楽しさを味わう人は一人。
しかし、その他の人は全員が負けを味わう。
負けても全員が楽しめる条件は、「負け方の質」でしょうか?
「正しいやり方で身体と精神を鍛えれば、かならず上達する」
ということを体で知ること、
「練習の価値と、達成の充実感」
を感じること、
これがちゃんとできるようになれば、負けても悔いは残らず、達成感
を味わえるということでしょう。
それはわたしも経験があります。
デイリーインスピレーションやザレスポンスに、よく結果に一喜一憂すること、例えばほしいものが手にはいらなかったと言ってがっかりしたり、お金が入れば幸せだとか言うように何かの対象に左右されることはおろかなことだと書かれています。でも私は日ごろやはり、努力を認めてもらえたときは幸せになり、好きな相手に邪険にされたりすると悲しくなってしまい、そのような情況に左右される自分が低レベルなのかと思っていましたが、この記事を読んで、共感しました。スポーツで優勝すれば嬉しいし、予定のお金が入らなかったら落ち込むというように反応するのは正しいことなのですね。
私が子供の頃はスポーツにおいては、勝つよりも負けることが多かったです。
ですからスポーツがあまり好きではありませんでした。
体も小さかっただけでなく、単純に練習が足りない、ホメられたことがない。
今思えば、不得意だと思い込むのは当たり前でした。
それにしても、平等主義は世界各国で起こっているんですねぇ。
子供の世界に平等主義を持ち込んだのは、子供の能力を伸ばす努力を怠った大人の責任回避かも知れませんね。
勝者も敗者両方の能力を伸ばしていくのが重要なのでしょうが。
おはようございます。
私はいわゆる「かけっこはビリ」というタイプの
子どもでしたが、自分がダメダメでも、
他の子が頑張って点数を稼いでクラスが勝ったりすると、
「~~ができてたもんね。がんばったね!」
と言ってもらえたりして自分なりにうれしかったことを
思い出しました。
また、自分に「頑張ったね!」と言ってくれた子が優秀な
存在だったりすると余計、次はもっとがんばるぞ!と
思ったりして。
勝つこと=勝ち誇ること、驕ること で、
負けること=価値がなくなること のように
思ってきましたが、そうではないことを
知ると、順位や賞も大切なことだと思えるように
なってきますね。
ありがとうマット!
スポーツの世界!大好きです!
私は、バレーボールを小3・4、中学・高2・3、短大でやっていました。
途中で飛んでいる年は、転校や、親との意見の食い違いでやむなくやっていない時期です。
幼稚園前に私は数年入院と自宅療養をしていました。
さまざまのことがありましたが、私にとってスポーツは技術だけではなく精神面で幅を持たせてくれたと、今では思っています。
私の息子は、自分はスポーツで得意な分野がある!と思っています。
幼い頃は体も小さく筋力のない子でした。気持ちも体を動かすことに関しては貪欲ではありませんでした。
そこで、私は一緒にベビースイミングへ行ったり、コーチが素晴らしかったサッカークラブへ入れたりしました。
小3の時、息子と話し合い、スイミングとサッカーに区切りをつけ、ヒップホップと柔道に挑戦しました。
これらの体験は、息子の自信になっています。
今日は、小学校最後の運動会!応援団や組み体操で頑張ります。
娘と応援に行ってきます。
「個性」と「努力」への賞賛は、子育てにおいて必ず必要です。
それを避けて通っているようでは、筋の通った人間へ成長できません。
どのようなことでも、学ぶことがあります。
自分の長所や短所を理解していれば、全てが身になります。
それを指導していくのが、教育者ではないでしょうか。
読みながら、事業仕分けを思い出しましたけどね。
「一位になる意味があるんですか? 二位じゃ駄目なんですか?」
ある意味、そういった考えの人が政治をやっているのかと、空しくなるような感じもあるんですけどね。
やっぱり、競争するっていうのは自分を高める動機の一つですしね。
そのための目標として、順位とかそういったものがあるわけですからね。