動きと瞑想
おはようございます!
マット・フューリーです。
世界的に有名なコピーライターのゲーリー・ハルバートが、
かつてこう言いました。
「動きは瞑想よりも優れている」
あなたは賛成ですか? それとも反対ですか?
その答えを出す前に、今日はこの言葉を、
「禅の男」であるマットが、
前代未聞の方法で分析したいと思います。
まずは、私自身が経験した
最高の動きについての話をお聞きください。
1週間前のことです。
執筆中の本がほぼ完成しました。
あとは最終の編集を残すのみ。
そこで私は椅子に座り、両足を床に下ろして、
背骨をまっすぐ伸ばし、深呼吸を始めました。
そして、編集作業を始めました。
その「動き」が終わった時、時計を見てびっくりしました。
あっという間に9時間もたっていたのです。
飲まず食わずで、ただ呼吸をして、私は編集していました
――両足を床につけて、背筋を伸ばして。
完成後、立ち上がると、
生命のエネルギーが、
「動き」に没頭していた時よりもずっと速く動き出しました。
肩と背中、脚の筋肉をほぐすと、
渦巻が体中をぐるぐる回っているような感じがしました。
それから、私は数人の友人に電話をして、
本が完成した事を告げました。
電話中、体内が振動していました。
あぁ、なんて素晴らしい気持ちなんだ。
ほとんどの人々にとって、
書くことや売ること、話すこと、読むこと、
エクササイズをすること、セックスすること、
食べること、飲むこと、
シャワーを浴びること、排泄することは、
動きによって行われています。
しかし、上記はただの動きに過ぎません。
何故なら、動いている時に、
その内部で瞑想が伴っていないからです。
しかし、私にとって、動きと瞑想は同一です。
動きなしで瞑想する人は、
本当に瞑想しているとは言えません。
また、心の沈着を欠いたまま動いている人は、
本当に動いているとは言えません
――少なくとも、とても効果的に動いているとは言えません。
動きと瞑想は、最上のレベルで同一のものとなります。
動いている最中でも、蓮華座で座っている誰よりも
ずっと深いレベルで瞑想することができるのです。
そして、瞑想している最中でも、
誰よりも一番高いハードルを飛び越えることができるのです。
今日のメッセージ:
瞑想しながら、動く。
動きながら、瞑想する。
両方とも同時にできます。
そして、両方を同時にできる人が、
突出して先んじるのです。
動きと瞑想は同一です。
どちらかで良いというものではありません。
その鍵は、呼吸、体内の仕組み、意識です。
そして、訓練に対する前向きな心です。
マット・フューリー
PS.
サクセスグループを学んで
最高の動きを身につけましょう。
http://www.drmaltz.jp/html/success_group.php?mag=Psycho20090709MT
「瞑想しながら、動く。
動きながら、瞑想する。」
というのは、上座部仏教で行われている、「観」
パーリ語でvipassana(ヴィパッサナー)と同じことでしょうか?
このvipassanaと呼ばれる瞑想法は、自分自身の行動、考えたこと
、感情などすべてにラベリングをしていく瞑想法です。これによって自分は今何を考えているのか、何を感じているのかを把握することができます。
これにより、自分の感情を把握するため、冷静さを取り戻し、洞察力が身に付きます。うつ病の治療によいとの報告もあります。
この「観」の瞑想によってお釈迦さんは覚りを開いたと言われています。
いつもためになるメルマガをありがとうございます。
いつも興味深いお話、ありがとうございます。
「瞑想」というと、どうしても仏教とかヨガとかで静かに集中しているところを
思い浮かべてしまいますが、マットさんの話を聞いて、なるほどと思いました。
私は聖書を読むのが好きなのですが、その中に「霊のない体が死んだもので
あるように、業(わざ・行ない)のない信仰も死んだものなのです。」(ヤコブへの
手紙2:26)という言葉あります。
それと同じで、ただ、ただイメージを思い描いて、じっと集中するだけでは、
何も生まれないのだな~と改めて、マットさんの話を聞いて気づかされました。
私は絵を描くのが好きなのですが、それをやっているときは、何も考えず、
時間も忘れて、「無」のような感覚になることがあります。
でも、その指先から生まれたものは、確かに指を動かしながら瞑想した結果
なのだと思いました。
その絵を描いているときの気持ち、完成した時の気持ち・・・というのは本当に
「幸福」と言えるのではないかなぁ~と思いました。